F1ドライバー・ブルース・マクラーレンにより設立され、1966年よりF1に参戦し続けている。2011年シーズン終了時点で、グランプリにおける優勝回数、ドライバーズタイトル獲得回数、ともにフェラーリに次ぐ歴代2位、コンストラクターズタイトル獲得回数ではフェラーリとウィリアムズに次ぐ歴代3位の記録を持ち、F1を代表する名門チーム。
歴史
1960年代
1963年.ブルース・マクラーレンにより、ブルース・マクラーレン・モーターレーシングが設立
1966年.モナコGPでF1デビュー。
1968年.この年より2台をエントリーし、同年のベルギーGPでチーム・マクラーレンにとってのF1初優勝を遂げた。
1969年.ブルース・マクラーレンによる1回の優勝を含む5回の表彰台を得る。
1970年代
1970年.悲劇にいきなり襲われた。6月2日、グッドウッド・サーキットでCanAm用の新車M8Dをテストドライブしていたチームのボス、ブルース・マクラーレンがマシントラブルが原因で起きたクラッシュにより死亡した。チーム運営はテディ・メイヤーによって引き継がれ、目覚しい活躍を見せた。
1976年.この年のF1選手権ではジェームス・ハントが、雨で混乱したレースとなった最終戦F1世界選手権イン・ジャパンでフェラーリのニキ・ラウダをポイントで逆転して王座を獲得。 (ちなみにWEBサイト製作者が初めて観戦したGP)
1980年代
1980年.開幕戦でアラン・プロストをデビュー。シーズン終了後、それまでのマクラーレンと、マールボロの後ろ盾を元にロン・デニスのチーム、プロジェクト4の2チームが合併し、現在まで続くマクラーレンの体制の基礎が作られた。
1981年.ジョン・バーナードの設計によりカーボンファイバー製のモノコックを採用した初のF1マシン、MP4/1を出走させた。
1984年.MP4/2を駆るニキ・ラウダ(アメリカGP,ダラス)完全新設計のMP4/2シャシーを投入。ラウダのチームメイトとして、前年ルノーにいたアラン・プロストがチームに復帰した。ドライバーズタイトル争いはこの二人によって繰り広げられ、全16戦のうちラウダが5勝、プロストが7勝の計12勝をあげた。最終的にラウダがプロストをわずか0.5ポイント差で下し、自身7年ぶり3度目のワールドチャンピオンに輝いた。
1988年.プロストとセナのラインナップと新設計のMP4/4、ホンダエンジンの組み合わせは、16戦中15勝という圧倒的な成績を残し、コンストラクターズとドライバーズの両タイトルを獲得した。唯一優勝を逃したイタリアGPはプロストがエンジントラブル、セナはトップを走りながら、第1コーナーで周回遅れのジャン=ルイ・シュレッサーと接触してストップしたというもので、ドライバーいずれかが完走したレースは必ず優勝した。この年はポールポジションも15回獲得し、獲得したコンストラクターズポイントは199ポイントで、2位のフェラーリに対し134ポイントもの差をつけた。
1989年.マクラーレンMP4/5・ホンダ 1989年前年同様の布陣でダブルタイトルを獲得するが、深刻な問題も起きた。前年の第13戦ポルトガルGPでのレース中にセナがチームメイトであるプロストに幅寄せをしたことから両者の間に不協和音が生じ始め、この年のサンマリノGPにおいて、「1コーナーの通過順位をオープニングラップにおいては守る」というチームメイト間の紳士協定をセナが破ったことによって、プロストとセナの亀裂は決定的なものとなり、その後シーズン途中でプロストがチーム離脱を発表した。第15戦日本GPではシケインでお互いに道を譲らずに接触し、両者のエンジンは停止した。セナは復帰しトップでチェッカーを受けたが、プロストによる抗議によりシケイン不通過(後に押しがけに変更)との裁定が下され、セナはレース後に失格となった。これによりプロストの3度目のチャンピオンが決まった。
1990年代
1990年.日本GPにてコンストラクターとドライバーの両タイトルを獲得した。タイトル争いは前年同様に第15戦まで持ち込まれた。日本GPのスタート直後の1コーナーでセナがプロストに激突したことで両者リタイアとなり、セナの2度目のチャンピオンが決まり、コンストラクターズタイトルも決定した。
1991年.マクラーレンMP4/6・ホンダに乗るアイルトン・セナが前年から開発していたV12型エンジンを導入しシーズンを戦い、セナが当時の新記録となる開幕4連勝を達成した。序盤戦に広げた差を詰められながらも結果的には逃げ切り、第15戦日本GPでセナが2年連続のドライバーズタイトルを獲得した。コンストラクターズタイトルも、最終戦オーストラリアGPまでもつれたものの獲得した。
1992年.この年を以ってホンダは第2期F1参戦に終止符を打ち、撤退した。
1993年.この年のMP4/8は空力、ハイテク装備は他のチーム以上のレベルであったが、ルノーエンジンより50馬力から70馬力も劣るとされるフォードエンジンのパワー差と、シャシーの性能面でもウィリアムズとの差は大きかった。セナ一人で前年と同じ年間5勝を挙げた。最終戦のオーストラリアGPではこの年唯一のポールポジションをセナが獲得し、ウィリアムズの全レースポールポジション獲得を阻止した。コンストラクターズランキングもウィリアムズに次ぐ2位となった。
1997年.インペリアル・タバコのドイツ向けブランドであるウエストがタイトルスポンサーとなった。技術陣では契約上の問題をクリアしたニューウェイがテクニカル・ディレクターとして第11戦ハンガリーGPから加入。その後、マシン開発に拍車がかかり、翌年への明るい材料となった。1997年12月のテストからブリヂストンタイヤへ変更する事になった。
1998年.開幕戦オーストラリアGPでは1-2フィニッシュして3位以下を周回遅れにした。最終的にはハッキネンが8勝、クルサードが1勝をあげ、1991年以来のドライバーズタイトル&コンストラクターズタイトルを獲得した。ブリヂストンにとっても初ポール・初優勝・初ダブルタイトルとなった。