繁栄するきっかけになったのは、阿片戦争である。上海の租界の誕生そのものが、阿片戦争の敗北からである。その阿片戦争は一重にヨーロッパ諸国の均衡の変化に関わっている。今まで伝統のあった国が衰退し、新興国が興隆する時代になったわけである。
1760年頃になると、イギリスの対中国貿易(お茶)が莫大な額に達していた。代金を阿片の輸出で支払うということが時代背景にある。
イギリスのインド会社は早速ある一定規模の軍艦を準備し、阿片の輸出に乗り出し始めた。
そしてこれらのインドに置ける植民地帝国の機関をイギリス政府所有に作り上げた。イギリスはそのほかさまざまな方法で国際世論の避難の的にならないように、フランスにも同意を求めている。フランスの東インド会社はその時点で興味を示さなかった。
イギリスはそのフランスの無関心により。阿片の工場を建てる。まもなくイギリスはインド国内に罌粟(けし)の栽培地を確保し、本格的に中国への輸出に乗り出した。するとたちまち貿易は盛んになった。
しかしまだ問題はあった。阿片は中国には密輸という形で持ち込むしかなかった。中国役人を金で抱き込むやり方で密輸を実現させていた。中国皇帝は阿片の流入に「自国民の時間の損失」であるとし、異国からの悪影響を排除するために禁止令を発布した。
まもなく林則徐という役人が阿片禁止令の実行を行使するべく広州に派遣され、阿片戦争を惹起させることになるのである。
この戦争を始めるか始めないかをイギリス議会は議論した。中でも反対した人間がいた。「この戦争は末代まで大英帝国の恥となるだろう」と述べたが、その少数意見は無視された。
林則徐は何万という阿片の箱を焼き、イギリスに目にものを言わせたのだが、それが火に油を注いだ形となり、上海やそのほかの土地に租界を作られる羽目になってしまうのである。上海はその時点では荒涼とした泥濘の土地であったが、瞬く間に華麗な街に変身して行くのである。
上海には、中国政府の権威の及ばない列強諸国の租界がつくられ、いまもそのおもかげが外灘を中心にして残っている。
上海人は、一般的に上海語を使い、標準語(北京語)は、学校や公的な場でしか使わないようである。 この上海語、我々日本人にとっては早口言葉に聞こえ、人々が口喧嘩でもしているかのように聞こえる。(実際に街のいたるところで口喧嘩は行われている。)上海人は中国一プライドが高いといわれ、実際に他の地域の人と馬が合わないことも多いようで、上海で北京語を話す人はすぐによそもののレッテルを貼られることもある。また、エネルギッシュな人も多く、このことが街を活性化させる要因にもなっている。
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